『さあ、来たれ。論じ合おう。─主は言われる─たとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとえ、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。』(イザヤ書1章18節)
当教会のある大崎地方も、9月に入り、暑さが去り、秋の空気を感じるような季節になっています。教会前の空き地ではスズムシが、この季節を待ちわびたかのようにいっせいに鳴き、田んぼでは頭を垂れた稲穂の色に心安らぎます。季節の移り変わりをはっきりかんじる今日この頃です。
少し前の話になりますが、2020年12月、大崎平野は大雪に見舞われました。12月としては過去3番目の積雪だそうで、雪かきに追われたり、道でヒヤッとした方もおられたこととでしょう。
シーズンの最初がまとまった雪だったこともあり、まさに「景色が一変」するような感覚を覚えたことを思い出します。見慣れてはいるのですが、それでも、昨日までの慣れ親しんだ風景が一夜にして「何もかもが真っ白」へと変わるのは圧巻と言うほかありません。
それは、日常の様々な雑念や思い煩い、自己嫌悪といったものを振り捨てることができない私たちを白く覆って隠してくれるような、そんな感覚に似ているかもしれません。
ただ、その後雪かきをすると地面が顔を出し、日光があたると全てが「元の姿」に戻っていってしまいます。これもまた、なんとも言えない思いにさせられます。
これはある意味では私たちの「心」に似ているのではないでしょうか。
私たちは色々なもので自分の心の闇を覆い隠そうとします。一見うまくいったかに思えます。でも長続きしません。しばらくすると「元の自分」が顔を出してきて、幻滅することになります。人はどれだけ努力しても、自分で自分を白くすることはできないのです。
冒頭の聖書のことばにあるように、ただ神の力だけがそれを成し遂げることができるのです。神様の暖かな光を心に受けて、心の覆いを解かし、キリストの愛に心を委ねる。
その時、あなたのものではない力が心に満ちてきて、そうして、真の意味で私たちの心は白くされることができるのです。