『神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。』(ピリピ2章13節)
キリスト教に余りなじみの無い方は、漠然と「キリスト教を信じると『窮屈な』人間になる」と感じている方が多いように思います。「縛られたくない」と感じているのです。「もっと自分の意志でどこまでも自由に生きたい」と考えるのです。つまり、神の意志と自分の意志を天秤にかけて、自分の方を優先するのです。このような考え方をあえて言えば「自分教」と言えるでしょう。
ところが、クリスチャンになっても、この天秤の問題は、基本的にはついてまわる問題といえるのです。なるほど、クリスチャンは「自分教」ではありません。しかし、だからといって「自分はないがしろにしろ、忘れろ」。そうなのでしょうか。そうではないはずです。では、神の御心と、自分の意志とをどのように調和させれば良いのでしょうか。
聖書の中には、上のピリピの箇所にあるように「みこころ(=御心)」という言葉が登場します。これは「神の意志」という意味です。ある人はこの「御心一筋」で生きようとします。つまり「自分の意志を押し殺して、神が願うことだけをひたすら行おうと務めるべきだ」と考えるのです。えてして真面目な性格の方や、親から抑圧的に育てられた幼少体験を持っている人に、この傾向が強いように思います。
このようなタイプの人は非常に律法的な信仰、つまりいつも「〜せねばならない」と考えて生きることになります。「信仰とは義務に従うこと」と考えて譲らないのです。この人は自分の基準を他人にも当てはめようとしますから、結果として周囲の人も息苦しさを感じるようになります。信仰は自由と解放を与えるはずのものなのに、まるで反対の結果が生じるのです。これは長続きしない信仰と言えるでしょう。
一方、これとは反対のタイプも、現実にいます。「御心などどこ吹く風」の人です。「自分教」に限りなく近い人とも言えるでしょう。このような人は生活の中で「御心」を意識することが滅多に無いために、神のきよさも神の偉大さも、ほとんど感じることができません。いつも味気ない思いで、惰性的な、あきらめばかりの信仰生活を送ることになるのです。こういう傾向は、親から育児放棄(ネグレクト)され、愛を受けられなかった傷を持っている方に多いようにも思われます。
聖書が教えている信仰者の歩みとは、このどちらでもありません。
大切なことは「神の思いと私たちの思いが相まって、一つとなっていること」です。冒頭に挙げた聖書の言葉は、まさにそのことを教えています。ここには、自分というものを消し去れという思想はひとつもありません。しかし反対に、自分で全て何とかせよとも教えません。ここに書かれていることは、
私たちが神と共に歩もうと心しているのなら、 神は私たちの心に「志(=願い)」を与えて下さり、そして、実際に事を行なう実行力も与えて下さる
ということです。クリスチャンの人生とは「神と人との協同作業」なのです。「二人三脚」と言っても良いでしょう。夫婦関係でも、夫の意志100%、妻の意志0%なら、すぐに壊れてしまいます。逆も同じです。健全な夫婦とは「互いの思いが相まって、一つとなっている」夫婦です。神と私たちの関係も、同じなのです。
あなたの心は、いまどんな状態でしょうか。