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『わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。』(イザヤ43章4節)
先日、川崎で大変痛ましい事件が起こりました。同世代の子を持つ親として本当に痛みであり、また被害に遭われた方々がキリスト教系の学校に通う方々だったことは、キリスト者として二重の悲しみでした。
事件から時が経つに連れ、実行犯の生い立ちや生活が徐々に報じられています。それによると、非常に複雑な家庭環境で育ち、愛を受けられずに今まで歩んできたようです。誰も関わってくれる人がおらず、孤独と孤立感を深め、怒りを抱き、最終的には絶望へと至って「もうどうにでもなれ」という思いで犯行に及んだことが、想像できるのです。
巷ではこのような事件が起こるたびに、「防止策」が議論されます。でも今回のような事件は、絶望ゆえ死を覚悟している訳ですから、一旦その思いに至れば防ぎようがないとも言えるでしょう。それで私たちは無力感を感じ、転じて行政や関係者の不作為を指摘したりします。しかしどんなに素晴らしい政策が採られていたとしても、それが彼の絶望を癒やすことは恐らく無かっただろうと思うのです。
彼に必要だったのはただ「あなたは愛されているよ」と言ってくれる人の存在。そこに尽きると思います。先日読んだ新聞のある記事で、同じように引きこもりの時期を過ごした方が「自分には「愛しているよ」と言ってくれた人がいて、その言葉に本当に救われたんです」と語っていたことは、とても印象的でした。
いま、私たちが生きる社会に必要なのは、私たち一人ひとりが、自分の身の回りからそれを実行していくことではないでしょうか。
そしてそのためには、人知をこえた神の愛を知っていくことによってしか、難しいのではないでしょうか。
冒頭の聖書のことばは、
「たとえ世間が無関心でも、人々が冷淡でも、親が見捨てても、あなたには愛してくれる神様、見捨てない方が確かにいるんだよ」
と語っています。
このメッセージを、私たちの周りで絶望しかかっている人々に向けて何度でも何度でも愚直に伝え続けていく人。
今の世に、本当に必要とされているのは、そういう人々ではないでしょうか。