『あなたのみことばは 私の足のともしび 私の道の光です。』(詩篇119篇105節)
世の中は「キャンプ」がブームのようで、昨今はどこのキャンプ場も家族連れでにぎわっています。自然の中という「非日常」と、整った設備という「日常」の、ちょうど中間点がキャンプ場であり、その程よい頃合いがブームの原因かもしれません。
さて、キャンプのいちばんの特徴は何でしょうか。それは「夜がとにかく暗い」ということです。まさしく「漆黒の闇」とはこのことかと思うような真っ黒の世界の中で一晩を過ごす夜。常日頃、 スイッチひとつで明るさを得られる生活とはまさに別世界です。
そこで、多くのファミリーキャンパーにとって最大の問題が「子どもの夜のトイレ」です。小学生なら何とか自分だけで行けますが、幼稚園児となるとそうはいきません。どの親も深夜に起こされ、眠い目をこすりながら子どもを先導してトイレに連れて行くことになります。
そんなとき、いつも教えられることがあります。それは「子どもは親がともにいてくれると、暗やみも恐れずに進んでいける」ということです。自分だけでは心細くて泣き叫んでしまうのに、ただ親が一緒に歩んでくれるだけで、嘘のようにその恐れは消え去ってしまうのです。
考えてみると、しかしこれは大人の場合でも同じではないでしょうか。
聖書はこの世界を「闇」に例えています。 光である神から離れたこの世界には、さまざまな苦しみや悩みが満ちています。ですから、たとえ自分はどんなに「私は強い人だ」と思っていても、それでも倒されてしまうことがあります。また、不安や恐れで心がしめつけられるような時もあります。
人生には、自分の力ではどうにもならないことが、確かにあるのです。「死」は、その最たるものではないでしょうか。死の先は、まさに「暗やみ」です。誰も知りません。もしそこで、そのような「人生の闇」を照らす光を持たなければ、途方に暮れてしまうことでしょう。そこまで行かなくても、「死ぬほど苦しい」という経験も、人生には確かにあるのではないでしょうか。
しかし、神である主はまさにその光として私たちの行く道を照らして下さいます。
冒頭の聖書のことばは、「神のことば」こそが人生を照らす光であると教えています。人間のことばにも、優れたものは無数にあります。しかし、どんなに優れた人であったとしてもやはり、最後は死を迎えるのです。とすれば、人間のことばを頼りに生きることは、本当の解決と言えるのでしょうか? いいえ、言えないでしょう。人間を導くことができるのは、人間を超えた存在、すなわち、天地を創造された偉大な神のことばだけではないでしょうか。
あなたは今日、この光を新たに頂いて歩んでおられるでしょうか。
小さい子どもは、親が一緒に歩んでくれるだけで勇気を得て、暗やみの中でも突き進んでいくことができます。神様はまさに、あなたに対してそのようにして下さるのです。
あなたもぜひ、創造者なる神を求めて、平安と安らぎのある人生を歩んでいきませんか。