『なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。それは、人の子が与える食べ物です。この人の子に、神である父が証印を押されたのです。』(ヨハネ6章27節)
前回のコラムで大雪のことを書きました。
その大雪の後、比較的良い天気が続いたこともあり、山と積まれた雪を少しでも減らそうと、日中は駐車場に雪山の雪をばらまくという作業を繰り返しました。幸い飛び散った雪はみるみる解けて水になり、雪山を解消することができました。
この作業をしながら、ふと「一体、自分は何をしているのだろうか」と感じました。
汗水流して雪を放り投げる労働をしているけれども、この労働はすべて「無くなってしまうもののため」にしているに過ぎないのです。どれだけ頑張っても、後には何も残らず、ただ消えて行くのです。そう考えると一抹の虚しさを感じました。
考えてみるとしかし、これは「人生そのもの」にも当てはまることではないでしょうか。
人々は一生懸命働いて、自分の生きた証しを人々の前に残そうとします。でも、どんなに偉大なことを成し遂げても、やがては、それらを全て後に残して旅立つ時が来るのです。
だから、イエス・キリストは冒頭の聖書のことばにおいて言われました。「なくなるものではなく、永遠のいのちに至るもののために働きなさい」と。
これは、日々の労働が無意味だといっているのではありません。目線のことを言っているのです。「何を見つめてあなたは生きているのか」と問うているのです。
あなたの目は何を見ておられるでしょうか。
消え去るものにではなく、永遠に残るものを見つめて歩む、幸いな人生に一歩、踏み出していこうではありませんか。