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消えることのない栄誉

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sheshagirikm / Pixabay

『群衆は、イエスの前を行く者たちも後に続く者たちも、こう言って叫んだ。「ホサナ、ダビデの子に。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。ホサナ、いと高き所に。」』(マタイ21章9節)

災害の谷間という厳しい文脈はありましたが、先日の「即位礼」は大きく報じられ、皆さんも様々な形で目にされたことでしょう。世界各国から要人が招かれ、祝宴が開かれ、華やかな雰囲気の一日だったと思います。

一連のニュースを見ながら私は、「移り変わる人の世で束の間のあいだ務めを果たすにすぎないひとりの人のためにさえ、人々はこれほど入念な準備をなすのが当然と思うのならば、もし宇宙の一切を統べ治める『王』を相手にするような機会があるとしたら、私たちはどれほどの情熱をかけなければならないことだろう」と感じた次第でした。

ところで、聖書を見ると「イエスは王である」という主張が一貫して見られます。しかし、王としてのイエス・キリストを見ると、その姿は私たちの想像とはいささか異なっています。

冒頭の聖書箇所は、イエスが王であることを示している代表的な箇所と言われ、十字架に掛けられる週の最初の日である「棕櫚の日曜日」に、主イエスがエルサレムに入城された時のこのことを記した場面です。

ここで、イエス・キリストが乗ったのは高価なオープンカーではなく「小さなロバの子」でした。また、その身にまとっていたのは上等の装束や王冠や勲章などではなく「質素な布一枚」でした。頭には冠の一つもなく、きらびやかな玉座もなく、王族たちの出迎えもなく、祝宴もありませんでした。

何もかもがこの世の王の姿からかけ離れていました。

しかし、聖書はこのイエス様こそが「王の中の王、主の中の主」であると語るのです。逆説的ですが、真の王としてのイエスの栄光は、このような「へりくだり」の中にこそあったということです。

人々の間で認められる「栄誉」は、一時的なものです。どんな偉大な王も、時が経てば忘れられていきました。しかし、キリストの「へりくだり」は、時を経ても色あせることなく、今も多くの人々の心を惹きつけています。

あなたは、どちらの「栄光」を追い求められるでしょうか。

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