「博士たちは、王の言ったことを聞いて出て行った。すると見よ。かつて昇るのを見たあの星が、彼らの先に立って進み、ついに幼子のいるところまで来て、その上にとどまった。その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。」(マタイ2章9〜10節)
12月初旬の古川の風物詩といえば、時に空を覆い尽くすほどの規模で飛ぶ、渡り鳥たちの姿です。三角形の美しい編隊を組んで悠然と飛ぶ彼らは、遠くシベリアから毎年同じ時期に全く同じ場所に正確にたどり着きます。驚異的な能力とはこのことでしょう。
聞く所によればこの能力は、体内時計と、地球磁場を感知できる特殊な目によるそうです。人間の目は光しか見えませんが、渡り鳥の目は光だけでなく、ある方向の磁気が明るく見えるような能力を備えているらしいと研究者たちは考えているのです。
人工衛星などなくてもこのような芸当をやってのける彼らの姿を見ると、人の力の小ささを思い知らされる思いです。
だからこそ、でしょうか。あのクリスマスの夜、はるか東方から来た博士たちを、ベツレヘムでお生まれになったキリストへと導く星の光が現れたのでした。それ無しには彼らは決してキリストのもとにはたどり着けなかったことでしょう。
このことは、実は私たちにとっても同じです。「私は人生のことが分かっている」と私たちは考えがちです。自分ですべてをコントロールしている気になっているのです。でも、私たちが自分の事を正直に見つめるならば、実は私たちの「道を見つける」能力は、あの鳥たちの方の足元にも及ばないほど小さなものだ、ということに気が付くのです。
いまだかつて「人生の地図」を持っている人はいません。私たちは、明日、自分が生きているかどうかも分からないのです。そんな私たちにとって唯一、「光」があるとすれば、それは、人間を生み出した神だけでしょう。
「神など信じられない」
そう感じている方は多いと思います。確かに、人間の理性や知性だけでは、神を信じることは難しいでしょう。でも、もし神が人間に理解できる存在だとしたら、そのような神は、本当に「神」なのでしょうか? 人間よりも劣る神、ということにならないでしょうか。人間よりも劣るそのような「神」に、私たちを導くことなど、できるでしょうか。
できないでしょう。
もし私たちが、ほんとうに自分を導いてくれる神を知りたいと思うならば、私たちは一旦、自分の無力さや力のなさを、認める必要があります。「私はあの小さな鳥たちよりも、人生を知らない」。そう認めることです。そして、自分の想像を超えた、創造者なる神の存在をまず認めることです。
そうすれば、神の光が私たちの心に差し込み、神が私たちの手をとって、ご自分の所へと私たちを導いてくれます。そのようにして初めて、人間は神を信じることができるのです。
碧空を飛ぶ鳥たちの美しさには、しばし見とれてしまうほどです。でも、神が与える恵みは、あの鳥たちの美しさを遙かに上回って、美しいものなのです。あなたも、今日から、この神様に心を開いてみませんか。難しいことは必要ありません。ただ、あなたを生み出して下さった神に、心を開いて、「神さま・・」と短く祈ること。
あなたと神との出会いは、そこから始まっていくのです。