『兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠惰な者を諭し、小心な者を励まし、弱い者の世話をし、すべての人に対して寛容でありなさい。』(Iテサロニケ5章14節)
先日、子どもの持久走記録会の応援に行く機会がありました。
走る姿には、それぞれの子どもの性格が如実に表れます。とにかく一瞬でもトップに立とうと死に物狂いでスタートダッシュする子。淡々とペースを変えずに走り続け、いつの間にか上位に来る子。頻繁に後ろを振り返って、追い上げを確認する子。最初から諦めの境地といった面持ちで歩く子。まさに「三者三様」です。
そんな中、特に印象深かったのがある男の子です。丁度前に来た彼に妻が「○○くん、ガンバレ〜!」と声を掛けると、こちらを一瞬見て頬を緩ませた彼は、ギアをあげて一気に走り去っていったのです。後でお母さんから「あの応援のおかげで、今日はいつもより頑張れた!」と喜んでいたと聞かされました。このように、子どもにとって「親以外の人から励まされる経験」は特別なものと言えるでしょう。
これは「諭す」ということにおいても同様です。皆さんも、子どもの時によその親御さんから諭された経験は、記憶に残っているのではないでしょうか。特に、その「論し」から「愛」を感じられた場合には、尚更ではないでしょうか。
ですから、冒頭の聖書のことばにあるように「子どもは皆で育てる」ことが大切です。一人で抱え込んで悶々することは、親にとっても子どもにとってもよくありません。信頼のおける経験豊富な人に相談し、時にはその人から子どもを励ましてもらったり、諭しをしてもらったりすることです。その経験は必ず子どもの心に残り、成長につながることでしょう。
教会というところは、まさにそのようにして、「みんなで共に子どもを育てて行く」ことのできる場所と言えます。子どもたちも、親ではない色々な人々、時にはおじいちゃんやおばあちゃん世代の人々からも声を掛けられ、励まされることができます。また、すでに子育てを終えた大人たちも、子どもたちの姿から教えられ、心の癒やしを感じます。
教会というところはそのようにして「共に成長していく場所」でもあるのです。