生かされている自分

この記事は約2分で読めます。

grayscale photo on person walking

『あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりの時に現されるように用意されている救いをいただくのです。』(Iペテロ1章5節)

散歩をするようになってからしばらく経ちます。ある春の夜のこと。長い冬が終わり、夜の冷え込みも緩んできたことから、ナイトウォークを再開することにしました。

初日は少し薄着すぎたのか、途中から冷たい寒さに身震いしましたが、数ヶ月ぶりのナイトウォークはとても新鮮な感じがしました。一番の違いは「無防備な感じがすること」です。日中の暖かい太陽の光がなく、寒さから身を守ってくれる壁もありません。身を守ってくれるものは薄い上着とジーンズだけ。空を見上げれば、はるかかなたに瞬く星々の光。果てしなく広い宇宙が、覆い被さるように黒々と広がる下で、たった一人で歩いている、ちっぽけな自分がいたのでした。

ふと思いました。「守ってくれるものを置いてきた自分は、何と小さくはかない存在だろうか…」と。それは、家の中にいるときには感じることのない感覚でした。

すぐに思いました。「もしも、家や着るものといった神様からの守りがなければ、私はこの寒さの中で凍えて果てていくだけだ」と。ぞっとするような経験でしたが、しばらく忘れていた厳然たる事実でした。

そうなのです。私たちは「生きている」のではなく「生かされている」のです。そう思えたら寒さの中、心の中にじわりと暖かさがよみがえって来るのを感じました。そして、「生かされている」喜びが溢れてきたのです。

家が近づき気が緩んだ頃、用水路から突然、野鳥が2羽飛び上がりました。暗闇の中、あまりに突然のことで「何者か!?」と恐怖の余り叫びそうになりました。そんなところにも自分の小ささを味わわされた、春の夜のひとときでした。

タイトルとURLをコピーしました