『しかし私にとって、あなたがたにさばかれたり、あるいは人間の法廷でさばかれたりすることは、非常に小さなことです。…私をさばく方は主です。』(Iコリント4章3〜4節)
日本代表は惜しくも決勝で敗れましたが、UAEで開催されたサッカーのアジアカップ(2019)は盛況でした。そんな中、日本の準決勝のイラン戦で大変興味深い得点シーンが見られました。ドリブルで突破しようとした日本の南野(みなみの)選手がペナルティエリア手前で倒れた時、主審は笛を吹いていないのにイラン選手5人が主審に向けて駆け寄り、両手を広げて「そりゃおかしいよ!」というアピールを行ったのです。
実はこのプレイはファールでも何でもなく、試合はそのまま続行していました。それに気づいた南野選手は、前方に転がったボールを懸命に追いかけ、追いつくとすぐにクロスを上げました。すると、真ん中に走り込んで待ち構えていた大迫選手がドンピシャでヘディングし、見事なゴールを決めたのでした。試合後にイランの監督が「あれで意気消沈してしまった」と振り返った印象的なシーンでした。
このシーンの問題点は、イランの選手が「セルフジャッジ」(自己審判)をしてしまったことだ、と言われます。サッカーの試合においては、主審が絶対です。ファウルかどうかを決めるのは主審であり、主審が全てを決めるのに、イランの選手たちは自分で勝手に早合点してファウルだと思い込み、自分で試合を止めてしまったのです。それが、手痛い失点に繋がってしまったのでした。
では、この試合から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。それは、「人生の主審は誰なのか」ということです。サッカーであれば、審判がいますが、人生の審判は誰なのでしょうか。
実は、多くの人がこの問いを深く考えずに、自分自身を審判にして、セルフジャッジをしているのではないかと私は思わいます。そしてその結果、時には高慢になったり、時にはひどく落ち込んだり、時には早合点してなすべき事を止めてしまったりと、不安定な人生を生きてはいないでしょうか。このような問題が起こるのは、私たちが自分自身を人生の主審にしてしまっているからなのです。そう、あのイランの選手たちのように。
では、どうすればよいのでしょうか。
本当の主審は、誰なのでしょうか。
聖書によれば、それは「創造者なる神」だということになります。聖書は、人間は偶然の産物ではなく、意味と目的をもって造られた存在だと教えています。
もしそうであるのなら、私たちの人生の主審は私たちではなく、私たちを造った神であるはずではないでしょうか。
新約聖書の三分の一を書いた使徒のパウロという人は、冒頭の聖書のことばにおいて、まさにそのように「私の人生という試合をさばく主審は神様だ」と告白しています。彼の人生はとても困難に満ちたものでしたが、彼がそうした人生を最後までしっかりと生き抜くことができた秘訣は、ここにあったのではないかと思うのです。
私たちの人生の主審は、創造者なる神様です。この方の鳴らす笛によって生きていくなら、人の目や自分の劣等感に左右されず、しっかりと地に足を付けていきていくことができます。自分がどう感じようと、他人がどう言おうと、笛が鳴るまでは主審である神様を信頼して最善を尽くす。そうすれば、「人生という試合」が終わったときには、素晴らしい喜びと充実感が、待っているのではないでしょうか。
日本代表チームの見事な先取点を見ながら、そう思わされた次第でした。