『悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。』(マタイ5章4節)
「今年は雪が少ないね〜」と言っていたのも束の間、このところ非常に寒く、雪が降る日が多くなってきました。もちろん、雪かきをすることも増える訳ですが、スコップで雪を寄せながらあることに気づかされました。
それは「まだ雪が降り続いているうちから雪かきを始めた方が遙かに楽である」ということです。雪が上がり晴れ間が差してからすると解けた水で雪が重くなり、より力が必要になることが経験的に分かってきたのです。
このことは、私たちの人生にも当てはまるように思います。様々な困難や問題が起こるとき、私たちはひたすらその嵐が過ぎ去ることだけに関心が集中してしまいがちです。「とにかく早く過ぎ去ってくれ」「この危機さえ乗り切れば」。つまり「晴れ間」が来ることばかり考えてしまうのです。けれどもその結果、「嵐や危機の中に働かれる神の恵み」を見落としてしまうことがあるように思うのです。
冒頭の聖書のことばは、まさにそのことを語っています。例えばここで記されている「慰められること」を考えてみましょう。これは「晴れの日」や「喜びの日」には決して味わえず、悲しみや落胆の中にある時にしか経験できないものです。もし私たちが「慰め」を経験したいならば、悲しみをも経験しなければなりません。両者はコインの裏表のようなものだからです。
私たちが生きていくとき、「他者との絆」は欠かせないものです。人間は、誰ともつながりを持たずに生きていくことはできません。では、この絆はどんなときに、最も強まるのでしょうか。それは、相手が共に悲しんでくれて、慰めを与えてくれた時ではないでしょうか。
イエス・キリストは、冒頭のことばにあるように、私たちを慰めて下さるお方です。聖書を読むと、キリストが行かれる所どこででも、自分の罪に苦しんでいたり、病に悩んでいたり、人生に行き詰まっていた人が希望を見いだして、再び立ち上がることができるようになった姿がたくさん記されています。
そうです。イエス・キリストは、あなたにも同じようにして下さるのです。
ですから、私たちは嵐や危機が襲ってきたとしても、それを嫌ったり、疎んじたりする必要はないのです。神は、嵐や危機の中でしか味わえないものを、私たちの人生に用意しておられます。そして、そのような中でしか味わえない慰めや恵みを、備えて下さっているのです。
ですから私たちは、キリストに信頼を寄せて良いのです。