だれが、まずわたしに与えたというのか。わたしがそれに報いなければならないほどに。天の下にあるものはみな、わたしのものだ。(ヨブ記41章11節)
冬になると、古川は雪に覆われることが多くなります。その都度、雪かきに繰り出す訳ですが、ふと気づいたことは、教会の駐車場にたくさんの車が通った後があったことでした。雪がなければ土地の境界ははっきりしていますが、いったん雪が積もると、何も見えなくなってしまうため、道路と思って通っているのです。
これと似ていますが、雪国では昔、冬になるとソリで駅から家まで直線で帰れるようになり、かえって早く着いたそうです。誰の土地も関係無く自由に行き来して、皆がそれを「当然」と思っていたのです。
こう考えると、人間の定めた土地の境界とは一体何だろうか、という気がしてこないでしょうか?
ところが、文明が高度に発達した現代であっても、人間は結局、「土地」を巡って争い続けています。自分たちの「土地」を守ろうと、膨大な予算を使って「壁」を建築しようとする指導者がいるかと思えば、民族の利益だと軍事力を増強して小さな島を確保しようとする国もあります。人間のなすことは昔から全く変わっていません。
そこで、聖書は言います。「天の下にあるものはみな、主なる神のものだ」と。
これは、いったい何という大胆な主張でしょうか。「人間がしている土地をめぐる争いは、結局は小作人同士の争いにすぎない」と言っているのですから。こんなことを言うことができる存在がいるとすれば、それはまさに「神」に他ならない、と思うのです。
しかし、信仰を持つ人にとっては、これは大いなる慰めです。この世界を見ていると、人間の愚かさが世界中を振り回しているように見えるときがあります。それでも、すべては神の支配のもとにあって起こっていることだ、と思えるからです。
言ってみれば、信仰を持って生きると言うことは「想定外の無い人生」を歩むことができる、ということでもあるでしょう。このような安心は、人間や物質だけを見ている限り、決して得ることはできません。人間を超えた存在、全てを創造し、支配しておられる神に目を留めることからしか、生まれて来ないものです。
そのような「神」を受け入れることは、難しく思えるかもしれません。でも、まずは心のガードを少しだけおろし、「神さま、本当にあなたがおられるのでしたら、信じることができるようにしてください」と祈ることから初めてみてはいかがでしょうか。