『すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。』(ヘブル12章11節)
先日、このコラムに新型コロナ自粛中の家の掃除のことを書きました。その後も、この期間の前半は大掃除に明け暮れることになりました。
その過程で屋根裏に置いてあったいくつかの箱を開いてみました。
20年以上も前の写真や日記、出かけた先でのお土産などが詰まった、いわゆる「思い出の箱」です。キーホルダー、マラカス、ガラス細工、電子手帳…。手にとる度にそれを手に入れた頃のことが思い出され、「光陰矢の如し」の心境に至りました。
と同時に、以前に比べて自分の人生を見つめる目が変化していることに気づかされました。良い思い出も、辛かった出来事も、全てを包むように守って下さっていた「神様の御手」を感じたのです。
そしてこのことは、信仰を持って生きる人だけが得ることのできる大きな恵みではないかと思うのです。
確かに、「辛いことにも意味があった」と振り返ることのできる人は、世の中にたくさんいるかもしれません。でも、「全てのことの背後に神様の見えないがあって、私は今まで支えられて生きてきたのだ」と確信できる人は、それほど多くはないのではないでしょうか。
信仰を持って生きる人に与えられるのは、まさにそのような確信です。
その確信は、時が経てばたつほど、辛苦と喜びを積み重ねるほど、益々強められていく確信です。そして、人生を閉じる最後のときには「私の人生には、無駄なことは一つもなかった」と感じながら、自分を愛して下さった神のもとに移されるのです。それが、神を信じるということの意義であり、ゴールなのです。
新型コロナとの闘いは、これからも続いていくと言われます。
そのような困難の中を通っている今この時だからこそ、すべてを導いてくださる神に信頼して生きること。それを、もう一度心に留めようではありませんか。