『ただし、聖書のどんな預言も勝手に解釈するものではないことを、まず心得ておきなさい。』(Ⅱペテロ1章20節)
ラグビーのワールドカップが日本で開催され、連日のように熱戦が繰り広げられています。日本代表の快進撃も相まって、日本でラグビー人気が高まっているのではないでしょうか。
さて、このために来日していたある外国人選手が経験したという、興味深いエピソードを読みました。東京から静岡に移動した彼は、夜の静けさに感激すると同時に、「虫の音」がうるさくて耳栓をして寝たと言うのです。ある日本人がそれに対して「欧米では虫の鳴き声は『騒音』と受け止められているからね」とコメントしていました。
私も以前、同じ話を聞いたことがあります。日本人にとって秋に虫たちが発する音は「声」であって、風情があるものと感じます。しかし欧米人にとってはそれは「騒音」なのです。この感じ方の違いは「優劣」の問題ではなく、生まれ育った文化と言語の違いがもたらす根本的なものなのであり、どれだけ居住歴があっても変化しないのだそうです。
このことは、「聖書」という書物を読むときの私たちにも、大切な教訓を与えているように思います。
聖書の大半は、四千〜二千年も前の出来事が記されています。ともすると、私たちはこれを、西暦2019年の日本人の感覚で読んでしまいます。例えば、さまざまな儀式の規定や、戦いの記録、あるいは文化的な違いなどを目の当たりにして戸惑ってしまい、自分とは縁遠いものだと感じてしまうのです。
けれども、考えて見て下さい。上のエピソードにあるように、同じ時代を生きる日本人と欧米人の間にすら上記のような大きな違いがあるのです。まして、時代も場所も、何もかも全く違う聖書の世界の人々の生活は、私たちとは著しく違っていたことでしょうか。
だからこそ私たちは、冒頭の聖書のことばにあるように、「聖書を独自解釈する危険」をしっかりと受け止めたいと思います。違和感や当惑感を「自己流」に解釈して片付けてしまわないで、信頼のおける人や書物からみことばを学び続ける心を忘れないことです。キリスト教会で毎週行われている礼拝は、そのような学びの機会としても有益です。
そして、そのようにして「学ぶ心」を忘れないでいるなら、聖書は私たちの人生にとって、かけがえのない大きな力を与えてくれるのです。