『見よ。わたしはあなたとともにいて、…あなたを守…る。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。』(創世記28章15節)
「あれ、この辺じゃなかったかな…?」。
その日、そう思った時にはもう曲がるべき角を通り過ぎていました。慌てて元の道に戻ろうとキョロキョロしましたが、道という道は全て「あぜ道」ばかり…。
走ること数キロ、見覚えのある道に出てホッと一安心。ずいぶんと大回りをして、ようやく目的地にたどり着きました。駐車場に駐めながら「ああ、こんなことなら最初からナビを頼りに行けば良かったナァ…」と一瞬後悔の念がよぎりました。
けれども、ふと「間違えて戻った道はなかなか忘れない」という以前聞いた話を思い出しました。すると「そうだ。私はもう二度とあの角を見失うことはないんだ!」という考えが沸いてきて、この道迷いも無駄ではなかったと納得することができたのです。
さて、私たちの人生にもこのような「道に迷う」経験が数多くあるのではないでしょうか。そんな時は「自分がいったい何をしているのか分からない。無駄な時間を過ごしている」と感じます。そして後から振り返って「最初からこうすれば良かった」と後悔してしまうのです。
でも、本当にそのような経験は無駄なのでしょうか?
そうではありません。信仰者にとって最も大切なことは、「物事を『価値』で判断しない」ことです。「これは有益、あれは無益」。それはこの世の中で普通とされる考え方です。そうではないはずです。愛する人と歩く時間は、たとえどんなものであっても大切な時間のはずです。とすれば、私たちを愛して下さる神様と共に生きる人生は、「全ての経験がかけがえのない時間」なのではないでしょうか。
信仰を持って生きるとは、「その人生には無駄なものは何一つない」と思える人生を送ることができる、ということです。これが信仰者の恵みです。神は私たちの人生の「どんな一日」をも用いて私たちを導いて下さる、素晴らしいお方だと、そう思って生きる人生は幸いなのです。