あらゆる所におられる神

この記事は約2分で読めます。

『わたしは近くにいれば、神なのか。─主のことば─ 遠くにいれば、神ではないのか。人が隠れ場に身を隠したら、わたしはその人を見ることができないのか。─主のことば─ 天にも地にも、わたしは満ちているではないか。─主のことば。』(エレミヤ23章23〜24節)

昨年の秋、県内を凄まじい雷雨が襲いました。教会にも至近距離に落雷があり、大きな音が鳴り響いて、子どもたちも耳を塞いで恐れるほどでした。

現代ではこの「雷」は、積乱雲によって上空に集まった電荷が、地面との電位差が大きくなった時に一気に放電することで起こると分かっています。その電圧は200万〜10億ボルトにもなるそうで、この膨大なエネルギーのゆえにあのような大音響となるのです。

ところで、昔の人々はこの雷を「神々の怒り」と考えました。「かみなり」という言葉自体、「神鳴り」から来たものです。昔の人々は、「良く分からないものは皆、神々のしわざ」と考えたのです。

しかし科学が進歩するにつれ、そう考える人は少なくなり、現代では「分からないものを何でも神に結びつける人」はまずいないでしょう。当然のことです。

では「神の領域」は減ってしまったのでしょうか?

そうではないのです。むしろ「科学が進歩すればするほど、神の創造の素晴らしさがもっと明らかになっている」のです。

例えば、あらゆる生物が有している「DNA」は、何十億もの分子が連なったもので、途方もない情報量が含まれています。これらが細胞の一つ一つに等しく存在し、生命が維持されているのです。このような精巧な仕組みは、単なる偶然の作用だけでは決して生まれないものです。

ですから科学者たちのなかには「DNAは宇宙から隕石に付着してやって来た」とか、あるいは「実は無数の平行宇宙があり、私たちは『たまたま』DNAが存在する宇宙にいるだけなのだ」と主張する人々もいます。もちろんこういった考えは「100%絶対にない」と否定することはできませんが、私にはもはやSF小説のようにすら感じられます。

そもそも、100%否定できないというのなら、「神の存在」も同じだということになります。そして、SFのような説よりも遙かに信頼性が高いように思えます。なぜなら、現に途方もなく複雑な生命がこの地球で生きているという事実があるからです。

神の知恵が無ければ、生命は存在し得ないのです。

冒頭の聖書の言葉にあるように、そのことを受け入れ、そして被造物のあらゆる所に表されている神様の偉大な力に感動し、喜び、心から感謝しつつ歩んで行く。

その時、本当の意味で平安な人生を送ることができるのではないでしょうか。

タイトルとURLをコピーしました