『イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません。』(ヘブル13章8節)
先日、出張で静岡を訪れました。復路は雲一つ無い天気で、新幹線の車窓から見える空の青さと、雪を抱く富士山のコントラストは息を呑むような美しさで、しばらく見とれてしまいました。
ところが不思議なことが起こりました。富士川を渡っていた時の富士山の大きさと、新富士駅に近づいた時の富士山の大きさが、全く違って見えたのです。
両者は直線で数キロしか離れていないはずですが、感覚では後者の方が2倍くらいは大きく見えました。「これはどうしたことか?」と思って帰宅後に調べると、どうも「錯視」のようでした。
周囲に何もない河原からは小さく見えるのですが、ビルや家々という分かりやすい比較対象がある場所では、錯視によって相対的な大きさが際立って見えるのです。同じ山を見ているのに何と不思議なことかと思いました。
実は、このような経験は私たちが「神様」を見るときにも起こっているのではないでしょうか。
体調や心の調子が悪いとき、私たちは神様を遠く小さく感じます。しかし心燃やされている時には主の偉大さに打たれて涙することもあるのです。
もちろん、神様の大きさが変化している訳ではありません。冒頭の聖書の言葉にあるように、主なる神はいつも変わることなく私たちを愛して下さっています。
ですから「変化しているのは私たちの側」なのです。
現在は、日々新しい情報が目まぐるしく入ってきて、翻弄されてしまいそうになります。しかし、そのような中にあっても、「イエス・キリストの愛は、どんな時にも決して変わることなく注がれている」という事実に、しっかりと立ちたいのです。
私たちは、自分の感じ方によって神様というお方を判断するのではなく、変わることのない聖書の約束にしっかりとよって立ち、主を見上げて歩んで行こうではありませんか。