新しさを追求することからの自由

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『昔あったものは、これからもあり、かつて起こったことは、これからも起こる。日の下には新しいものは一つもない。』(伝道者の書1章9節)

最近携帯電話の動作が重くなり、思い切って新しい機種に変更してみました。

いざ新しい機種が届いた当初は、何をするにも「すごい、速い!」「画面が綺麗だ!」と心躍る気分がしたものですが、どうでしょう。3日も経つと「まあこんなものかな?」という印象に変わり、約1ヶ月が経った現在では「あたりまえ」になっている自分がいます。

皆さんも似たような経験がおありのことでしょう。新機種、新曲、新車、新居、新年…等々、この世で「新」がつくあらゆるものは、永続する感動を与えてはくれないのです。

ですから私たち人間は心のどこかで「この新しいものも、いずれは失われていくものにすぎない」という諦観めいた感情を持っているのではないでしょうか。

でも、これはある意味では正しいことなのかもしれません。この世にある、あらゆるものはやがては過ぎ去っていくものです。これは確かです。にも関わらず私たちは、「新しさ」が幸福を与えると勘違いしがちです。

それで私たちは、環境を変えたり、物を買いそろえたり、人間関係を変えたりして、幸福を得ようと懸命に右往左往するのです。

しかし冒頭の聖書の言葉は、「人間は昔から新しさを追求しては、それに失望することを繰り返してきた」と語っています。確かに、世間で「新しい」とされるものは、いつかは必ず「古い」と呼ばれることになります。そもそも「新しい」と言われること自体、古いものと比較して相対的に新しいだけだからです。

相対的な価値ですから、時が経てばそれ自体もまた、比較されることになります。そして価値は失われていくのです。ですからそのようなものにすがろうとすると、いつかは必ず失望するのです。

しかし人間を救い、平安と幸福を与えるのは「永遠にかわらないもの」ではないでしょうか。「永遠へのあこがれ」がどれだけ人間の心に染みついているかは、信仰を持っている、いないに関わらず非常に多くの人が人の死に際して「天国」という言葉を使うことからも明らかです。

では、この世に「永遠」はあるのでしょうか。一つだけあります。すなわち「神ご自身」です。聖書は「神だけが永遠である」と語ります。人間がこの方のうちに価値観の土台を置き、この方と共に生きようと決心するとき、その人はこの世の「新しいもの」に振り回されることなく、正しく付き合っていくことができるようになるのです。

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