永遠の慰めを与えてくださる神

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brown wooden dock on body of water during daytime

『女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとえ女たちが忘れても、このわたしは、あなたを忘れない。』(イザヤ49章15節)

今年も3.11がやって来ます。満10年だった昨年は大きな節目の年でした。本来ならば、あの大災害を追想するための行事があちこちで行われたことでしょう。新型コロナはしかし、そのような状況を一変させてしまいました。

人と人との間に距離をとることを強いるこのウイルスは、人と人とが集まって共にあの時を想い、慰めを共にするという大切なプロセスを、力づくで奪い去ってしまったかのようです。

その結果、行き場のない想いを抱えたまま、歩みを一歩前に進めることができなくなった方が大勢いらっしゃるように思います。人間にとって「覚えられる」ということが癒やしにどれほど必要だったか。改めて気づかされるのです。

あちこちで「風化」が言われます。

確かに、人間というものはどんなに心を配っても、やがてはあのことを想う機会を減らしていきます。それは避けられないことです。前に進むためには、想い出をそっと畳み、心のタンスに納めていくことも必要だからです。

それは同時に、何とも言えない寂しさを生む営みでもあることでしょう。だからこそ私たちは、「ともにいて下さる神」の慰めをこの時、もう一度しっかりと心に覚えたいのです。

私たちは、永遠に他者を想い続けることはできません。私たち自身、やがては「想われる側」になるのですから、ある意味では当然のことです。

しかし主は違います。全能で無限の神には「忘れる」ということがないからです。人の世には風化がありますが、主にはありません。ですから私たちは、この主に想い出をお委ねし、この主にいつまでも想い続けて頂く

そこに、真の慰めがあるのです。

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