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災いがあったとしても

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『もしあなたがたがこの世のものであったら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではありません。わたしが世からあなたがたを選び出したのです。』(ヨハネ15章19節)

年末から年明けにかけて非常に大きなニュースが目まぐるしく飛び交い、いったいこの世界はどうなっているのかと不安を覚えた方も多いことでしょう。特に中東を舞台に高まっている緊張には懸念を抱かずにはいられません。対立が解消する方向に進むことを願って祈る者でありたいと思います。

その一方、私たちは必要以上にこの世の動きに心を乱されてしまうことにも注意したいと思うのです。確かに現状をしっかりと見つめ、世の中の様々な動きを見抜こうと心がけることは大切なことです。しかしそれが「不安のタネ」となってあなたの心を支配してしまうようなら、本末転倒です。

冒頭の聖書のことばにあるように、イエス・キリストを信じて救われるということは、私たちが「神様のもの」とされることを意味しています。それは、もはやこの世のどんな力も私たちを滅ぼすことはできないということです。私たちは主の絶対的な守りの中に置かれているのです。

これは、「今後いっさい災いに遭わない」という意味ではありません。聖書は、キリストを信じる者にも試練や困難は平等に訪れることを語っています。

では、何が違うのでしょうか。

それは「たとえどんな災いが起こり、この肉体を失うようなことがあるとしても、それでも主は私たちをよみがえらせて永遠のいのちに導いて下さる」という確信が与えられる、ということです。

「死」とは人間にとって究極の問題でしょう。しかしその「死」でさえも、私たちを神様から引き離すことはできないと聖書は語るのです。それならばどうして、「それ以下のもの」、つまり世界情勢や景気や未来のことを恐れて不安の虜になる必要があるでしょうか。ナンセンスではないでしょうか。

私たちの平安の源である主は、このような時代だからこそ、私たちの真の希望なのです。

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