『ほむべきかな 主。 日々 私たちの重荷を担われる方。 この神こそ 私たちの救い。神は私たちの救いの神。 死を免れるのは 私の主 神による。』(詩篇68篇19〜20節)
子どもの頃にキャンプをし、家庭を持ってから再開して5年以上になりますが、コロナ禍でアウトドアが今まで以上に注目されることになり、今年の夏から「山登り」も趣味に加えて始めました。
早速、子どもを連れて近くの栗駒山に登る計画を立てました。ある方の情報で西側からの眺望が素晴らしいと聞き、そちらから登ることにしました。当日は曇ってはいたものの天候は守られ、頂上では一時雲も晴れて宮城県側が綺麗に見えました。
往復6時間以上、途中悪路や徒渉もあり多少ハードでしたが、子どもたちも大満足だったようです。
そんな帰り道のこと。ある婦人が道の横に座り込んでいました。足を負傷された様子で、ご主人やレスキュー隊員の方が話し合っていました。すでに専門家が到着して状況を把握しており、皆さん落ち着いた雰囲気だったので「大丈夫だろう」と考え、少し話してその場を後にしました。
間もなく担架を抱えた大勢の消防隊員とすれ違いました。登山口まで降りると、今度はヘリコプターが飛来し、消防車やパトカーも集まって物々しい雰囲気です。この婦人の方は私たちが登る時に降りてきて「いってらっしゃい」と笑顔で励まして下さった方でしたが、程なく無事彼女を収容したヘリが飛び去っていき、安堵した次第でした。
このこの光景を見て、一人の人を救うためにこんなにも多くの人が情熱に燃え、一生懸命働く姿に深い感動を覚えました。
その時、ふと思ったのです。「人間でさえ、助けを必要としている人を救うためにこれほど努力するのだ。それなら、なおのこと私たちを愛して下さる神様は、一体どれほど熱心に私たちを救おうとされるだろうか」と。
その熱心の表れが十字架です。
十字架は、命をかけて私たちを救おうとされる神様が示して下さった、「限りない愛のしるし」なのです。