『イスラエルの子孫はみな主によって義とされ、主を誇りとする。』(イザヤ45章25節)
2020〜21年にかけての冬、古川じゅうで「あるもの」をよく見かけました。
それは「つらら」です。
12月末頃には、教会の屋根から60cmはあろうかという巨大なつららが成長し、2階の窓から目を見張るほどでした。
ところで、このつららが成長するには、特殊な条件が必要だそうです。つまり「雪が解けるほど太陽が出るが、同時に水が凍るほど気温が低い」、この条件が揃って始めてつららが成長していきます。どちらが欠けてもつららはできないのです。
ただ、どんなつららでも、やがては地面に落ちる時がやって来ます。実際、私たちが歩いている時に屋根から落下してきてバーンと派手な音を出し、ヒヤリとしたことがありました。美しく見事なつららには、危険な面もあるということです。
これは、私たちの人生にも言えることではないでしょうか。
楽あれば苦あり、私たちの人生には明るい太陽が照る日もあれば、凍てつく寒さの日もありました。時間をかけて、人生のつららが成長していきました。それは見事なもので、周りの人々から「すごいなあ」と賞賛されるほどでした。
けれども、いつかはそれも地に落ちる時が来るのです。しかも、場合によっては危険なものにさえなって。
ですから私たちは、この世で成し遂げた物事を過度に誇ったり、それを自分のアイデンティティにしたりしないよう、心していたいと思います。
冒頭の聖書のことばにあるように、たとえそれが他人の目に偉大なものに見えたとしても、「神様がさせてくださったことです」と、神を誇る者として歩んでいくなら、私たちはどんな時でも平安でいられるでしょう。
そして、そのように生きていくなら、私たちの「人生のつらら」も人々を楽しませ、喜ばせるものとして用いられることでしょう。