ある知人の牧師からこんな話を聞きました。終末期の病を負ったご主人がいる奥様から、病院に来て欲しいと頼まれたのだそうです。そのご主人は立派な社会経験を積まれた方で、自分は死を恐れてなどいない、と言いました。それゆえ、でしょうか。牧師から、人類を罪から救う救い主がいるんですよ、と聞いても、どこ吹く風だったそうです。
そこで、その牧師は聞き方を変え、こう尋ねたそうです。「Aさん。あなたは、今までの人生で後悔したことはありましたか?」と。今度は即座に答えが返ってきました。「もちろん、あります。人間ですから」。そこで牧師はさらに続けました。「では、どうして人は後悔を感じるのでしょうね。Aさんは、なぜだと思われますか?」。
その問いの後、長い沈黙があったと言います。そこで牧師はこう問いかけました。「Aさん。あなたの中に後悔を感じることがあるということは、自分ではどうにもならない、何らかの問題がある、ということではありませんか」と。この問いに、Aさんは答えました。「確かにそうです。そういう面がありますね」。
Aさんは、社会的に見れば、大変立派な歩みをしてこられた方でした。「自分は人様から後ろ指を指されるようなことは、何もしていない。真面目に生きてきた」。それがAさんの誇りでした。しかし、そんなAさんでも、人生の終わりを前にして振り返ったとき、「後悔」を感じることが、一つや二つではなくて、いくつもあったのです。そしてAさんは、その原因となるものは他人の中にではなく、自分自身の中に確かに存在していることを意識し始めたのです。この時から、Aさんの人生は変わっていきました。
「後悔」をするということは、「ああすればよかったのに、それができなかった」ということです。「正しい道は何だったのか。後から分かったけれども、その時は見えなくなっていた」ということです。人生には誰にも、そのようなときがあります。そして、失った時間や人や可能性を振り返っては、心に深い痛みを感じるのです。私たちはそれを「自業自得だ」とか、「仕方が無い」ということばで、忘れようとします。しかし、なかなか上手くいきません。Aさんのように、最期まで抱える人も多いのです。
聖書は、このような問題に悩む私たちに対して、次のように語りかけています。
「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。─主の御告げ─それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」(エレミヤ書29章11節)
私たちの人生に起きたことは全てが神の計画のうちにあり、神はそれらを用いて私たちに希望を与えて下さることができる。そう語っているのです。ままならない人生に、意味を与えて下さるのです。さらに、こうも書かれています。
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ書43章4節)
クリスマスは、この神の愛が、具体的なかたちを取って現れたときです。あなたもぜひ、この神様の愛に心を開いて、新しい人生へと一歩、踏み出してみませんか。