『律法全体を守っても、一つの点で過ちを犯すなら、その人はすべてについて責任を問われるからです。』(ヤコブ2章10節)
最近、下の子どもが自転車に乗り始めた時のことです。
練習用にと上の子たちが乗ってしばらくそのままになっていた自転車を調べると、タイヤがパンクしていることに気づきました。早速、ホームセンターで新しいチューブを買い、分解して古いチューブを取り出しました。調べると、針の先のような小さい裂け目が見つかりました。
まさに、そこから空気が漏れて、台無しにしていたのです。一瞬、「買わなくてもパッチを当てれば直せたかな?」と思いましたが「いつ別の穴が空くかも分からないし…」と思い直し、新品のチューブに交換しました。結果、無事に走れるようになりました。
このことから教えられたことがあります。
それは「タイヤチューブには絶対に穴があってはならない」ということです。「何を当たり前のことを…」と思われるかもしれません。
では、私たちの「人生」に当てはめて考えると、どうでしょうか。タイヤチューブの「穴」は、ある意味では私たちの人生における「罪」に似ているように思います。
私たちは、罪を軽く考えがちです。「これくらいは」とか、「誰でもやっているから」と理由をつけて、向き合おうとしないのです。でも、罪がチューブにあいた穴のようなものだとしたら、「プシューッ」とばかりに、その穴から神様の恵みが漏れて、人生の車輪を動きにくくさせているのかもしれません。
チューブに空いた穴はどんな小さな穴であっても、チューブの機能を失わせてしまうように、些細な罪であっても、それは私たちの人生の歩みを台無しにしうるということです。
だからこそ、私たちはイエス様の十字架が必要なのではないでしょうか。イエス様は私たちの罪を取り除くために、十字架にかかって下さいました。まるで穴だらけのチューブのようだった私たちの人生を、真新しいチューブのように変えてくださったのです。私たちの人生を、新しくして下さったのです。
こうして、私たちの人生の車輪は、再び力強く回りだすことができるようになったのです。キリストの十字架は、そのような恵みを私たちに与えて下さるのです。