『一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。』(Iコリント12章26節)
毎年、8月の終わり頃になると、石巻の教会にて「夏祭り」が行われます。今年もお手伝いに行かせて頂きました。私の担当は毎年「かき氷」です。今年は余り気温が上がらず「果たしてかき氷を食べてくれるだろうか?」と心配でしたが、次々と注文が入り杞憂でした。
その私の隣で、滝のような汗を流しながら「石巻焼きそば」100人分を作って下さるのがSさんで、仮設住宅での支援活動時代からずっと続く顔なじみです。Sさんは震災前、料理店を営んでいた本職で、本当に美味しい焼きそばをボランティアで作って下さいます。今年は「新兵器」として鉄工所に特注したという特大の鉄板を持ち込み一気に30人分を炒める姿は「圧巻」でした。
その光景を見ながら、「『支援活動』という意識で石巻に関わってきたけれども、実は、私たちの方も支えられていたのではないか」という気がしてきました。支える側、支えられる側というような区別ではなくて、「共に教会の夏祭りを造り上げる仲間」と言った方が実態によほど合っていると思ったのです。
教会とはまさにこのような所です。あなたは「教会が自分に何をしてくれるだろう?」という気持ちで教会に来るかもしれません。でも、教会とは同時に「あなたを必要としている人がいる所」でもあるのです。
あなたの何げない言葉、ささやかな笑顔、自然体の挨拶、「祈っているよ」の言葉、共なる祈りの数々—。それらすべてが、あなたの周りの人々を癒やし、支えているのです。
あなたは確かに「必要とされている、かけがえのない人」なのです。