すでに新しくされている

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『同じように、あなたがたもキリスト・イエスにあって、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対して生きている者だと、認めなさい。』(ローマ6章11節)

もうすっかり良くなりましたが、先日、約10年ぶりにインフルエンザに罹患してしまいました。病院で処方されたのは「イナビル」2本でした。この薬は、インフルエンザのウィルスが細胞にとりつく時の「足」をブロックする化合物で、細胞に入り込めなくなったウィルスはそれ以上増殖することができず、後は免疫に撃退される他なくなるのだそうです。

帰宅後、すぐに吸引しました。あまりにも手軽で、本当に効くのか半信半疑でした。ともかくも床に就き、朝が来てみると、熱は平熱近くまで下がっていました。まったく嘘のような「現実」でした。これほど劇的にインフルエンザの熱が下がったことは、ありませんでした。

それで、すっかり治った気分でいた私は、早くも二日後からベッドの上で仕事をしようとしてみました。しかし頭はフラフラ、目は良く見えずで早々に断念しました。身体はまだ回復の「途上」だったのです。

このことは、とくに信仰を持ってまだ日が浅い人に、大切な教訓を与えているように思います。多くの人は、宗教を信じればすぐに問題が解決するもの、と考えています。というか、手っ取り早く問題を解決したくて宗教を信じるのだ、と思っている方が多いのではないでしょうか。あたかもインスタントラーメンのように。

しかし、聖書はそのようには教えていません

実際には、次のような道筋をたどります。まず、イエス様を信じた時、私たちには「新しいいのち」が与えられます。「古いいのち」は過ぎ去るのです。ただ、私たちが実際にそれを体験できるようになるには、時間が必要です。それはちょうど、イナビルを飲んだ時のようです。もう、回復は決定づけられているのですが、その時点ではまだ熱があるのです。戦いは始まったばかりなのです。

この新しいいのちの「力」は徐々に、時間を掛けて現れて来ます。たとえばインフルエンザの場合は、熱が去って行きます。信仰の場合は、信仰を持った当初に、とても希望を感じ、生まれ変わったような気分がする人が多いことに似ています。

ただ、そこで重要な事は、熱が下がったからといって「完治」したのではない、ということです。この時点ではまだインフルエンザのウィルスは残っています。身体はウィルスと闘っているのです。これと同じように、イエス様を信じた人には、「古い生き方」の影響がまだ色濃く残っていて、それがその人を悩ませることがあるのです。

これが人が「神様を信じたけれど、実際の自分の生き方はどうして困難が多いのだろうか」と感じる理由なのです。

しかし、最も大切なことは、冒頭の聖書の言葉にあるように「罪との闘いは既に決着がついている」ということを、しっかりと受け止めることです。イナビルを飲んだ瞬間に、インフルエンザとの戦いは、すでに「勝利」で決着がついているように、イエス・キリストを信じたときに、罪との戦いの勝敗は、すでに決しているのです。

この先どんなことが起きたとしても、罪の力はもはや再び私たちを支配して虜にすることは永遠に不可能なのです。イエス・キリストが、十字架にかかって私たちの罪を、代わりに背負ってくださいました。ですから、私たちはもはや罪の支配は及ばないのです。

私たちに必要なのは、そのことを日々、確認していくことです。「私の中にある罪(インフルエンザのウィルス)は、すでに死んだんだ」。信仰によってそれを受け止めていくことです。そうするとき、少しずつその人の生き方が変わっていきます。

キリスト教の言う「救い」とはそのように、時間を掛けてその人の存在そのものが変えられて行く、恵みに満ちたプロセスなのです。

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