集まることの意味

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『ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか。』(ヘブル10章25節)

ここ宮城でも、緊急事態宣言が解除されて1ヶ月半が経ちました。

この間の”視界の変化”は、さながら「別世界」の趣さえ感じられます。数ヶ月ぶりに床屋さんで髪を切ってもらい、図書館で本を借り、ちょっとドライブをする。以前なら何でもなかった「日常」が妙に新鮮であり、同時に「こんなことしていいのだろうか?」という懐疑心が心のどこかに潜む。そして、そのすべてを「マスク着用」と「三密」を避ける意識を持ちながら行う—。

「これが所謂『ニュー・ノーマル』か…」と実感する毎日です。

4月に礼拝が原則ライブ配信となった時、「教会にとって『集まる』ことの意義は何だろうか」と考えさせられる日々が続きました。

では「画面上で献げる礼拝」と「会堂でともに献げる礼拝」とは、いったい何が違うのでしょうか。礼拝する対象の神様は同じ神様です。耳に入ってくる音声もほぼ同じです。目に映る風景も(前を向いている限り)だいたい同じです。

違うのは「存在」です。

そう、共に礼拝を献げる仲間という物理的存在が傍らにいるかいないか、それが決定的に違うのです。「存在の重み」とでも言えるでしょうか。「いのち」を五感を使ってフルに感じるという経験が、決定的に違うのです。

そう考えると、聖書が教会のことを「からだ」に喩えている意味が良く理解できるような気がしてきます。私たちの身体の各器官は相互に依存し合って生きています。与え、また与えられる。その関係こそが「いのち」の本質です。ですから、身体を離れたらその器官はもういのちを失ってしまっているのです。

教会に来るということは、単に「聖書の話を聞く」ということだけではありません。それは「いのち」を具体的に体験する場所です。自分は孤独な存在ではなく、またひとりで生きていくべき存在でもなく、神様が与えて下さった仲間たちと励まし合い、祈りあい、助け合いながら生きている。教会とは、私たちがその「いのち」を味わう場所なのです。

緊急事態宣言が解除され、マスク、手指消毒、換気、社会的距離、接触を避ける等の感染対策を徹底機に行い、皆が安心できる環境を整えた上で、そして集まることができるようになった今、改めてそのことを強く感じています。

新型コロナによって「集まる」ということを制限されたとき、逆に、「集まることの意義」を強く教えられた次第でした。

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