目に見えない神とともに歩む幸い

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『信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、その結果、見えるものが、目に見えるものからできたのではないことを悟ります。』(ヘブル11章3節)

日本全国で3ヶ月にも及んだ休校期間が終了してから1ヶ月が過ぎ、我が家でも元気に通学できるようになりました。

長いような短いようなこの3ヶ月間を振り返ると、教会に光回線が引かれWi-Fiがあったことが本当に幸いだったと感じています。タブレットやパソコンを利用して色々な教材や本に出会い、料理のレシピを調べ、映画を見るなど、退屈せずに過ごすことができたからです。

もし30数年前の私の子ども時代にコロナ渦があったなら、死ぬほど退屈していたことでしょう。神様の備えに感謝した次第です。

さてこのように便利なWi-Fiですが、考えてみるとこれは実に不思議なものではないでしょうか。何しろ電波は目に見えません(見えたら、それはそれで大変ですが)。しかしスマホなどのツールを使えば、「それが確かに存在していること」は確かめられます。線が繋がっていないのに、情報が次々と送られてくるのですから当然ですね。つまり「目に見えないものは存在しない」とは決して言えないということです。

同じことは、神様についても言えるのではないでしょうか。

ある人は「目に見えない神などいない。証拠も無い」と言います。本当にそうでしょうか。電波の比喩から分かるように、「いいえ、そうではない」のです。

それは、まず私たちの霊(心)で神の存在を感じることができるからです。このような話をすると眉唾に感じる方も多いようですが、しかし、そういう人も、親しい人が亡くなると「天国から見守っていてくれる」と言ったりします。霊的な存在を認めているのです。だとすれば、神が存在して、その神様を感じることができると考えることは、大いにありうることではないでしょうか。

もちろん、物理的な証拠もあります。この途方もない広大な宇宙と、奇跡的なバランスが保たれた地球という星が存在する事実。そしてその中に「小宇宙」とさえ言われる、途方もなく精密な人類が存在するという事実があるのです。

もし神がおられないのなら、これらあらゆるものは完全に「偶然の産物」によって生じたと考えなければならなくなります。私はそのように信じるほうが、ほど「信仰」を必要とするように思えてならないのです。

神は確かにおられます。

そして今あなたがこの文章を読んでいるこの瞬間も、あなたと共にいてくださるのです。

あなたもこの神様とともに、平安の歩みをしてみてはいかがでしょうか。

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