『茨の中に落ちたものとは、こういう人たちのことです。彼らはみことばを聞いたのですが、時がたつにつれ、生活における思い煩いや、富や、快楽でふさがれて、実が熟すまでになりません。』(ルカ8章14節)
今年の梅雨は、近年記憶に無いほど、本当に長く続きました。その甲斐あってか、教会の周囲の草花もぐんぐんと成長していきました。ある日、ふと気づくと、教会前の植え込みの中にある鋭いトゲのあるイバラが伸びてきていました。
数年前に1m以上の高さになり、危険なため、根元のあたりから切ったのですが、知らぬ間に再び80cmほどの高さまで伸びてきたのです。早速植木ばさみで剪定しようとしましたが、これがひじょうに難儀しました。2cmにもなる固いトゲが突き出しているために、手ではとても触れないのです。
仕方なく、地面に落としてから細かく裁断し、火ばさみでつかんで直接袋に入れ、なんとか集めた次第でした。もっと伸びていたら、処理が大変なことになったことでしょう。
ところで、聖書はこのイバラを「あるもの」に例えています。冒頭の聖書のことばにあるように「罪」と呼ばれるものがそれです。罪と聞くと、多くの人は「犯罪」をイメージするようですが、必ずしもそれだけではありません。聖書が言うところの罪とは「人間が、その造られた目的を実現することを妨げるもの」のことです。
例えば、ガラス職人がコップを作ったとします。しかし、できあがったコップにもし穴が空いていて、入れた飲み物が常にこぼれ続けるとしたら、それはコップとしては用を果たしません。たとえどんなに美しく細工してあったとしても、穴が空いたコップは、コップとしての意味を失っているのです。
私たち人間にも同じ事があてはまる、と聖書は語ります。人間の心の中には、造られた本来の目的を妨げる、さまざまな「罪」があると語るのです。もし私たちが心の中にあるそれらの罪をそのままにして、何の対処もしないのなら、その人の状態は悪化してきます。
それどろこか、その人がどんなに聖書のことばを聞いたとしても、そこから益を受けることができないばかりか、せっかく聞いた聖書のことばすらもすぐに枯らしてしまうのだ、と聖書は語っているのです。
イバラがある所には、人も寄りつきません。自分も傷つけられるからです。これと同じように、心の中に罪があるままでは、神様は私たちを用いることができません。ですから、もし私たちが罪を示されたなら、いつでも神様の前にそれを正直に認めて、主に立ち返っていくことが重要です。
豊かな実を結ぶ人生を歩むためには、私たちの心に潜むイバラを取り除かなくてはならないのです。
あなたの心の中には、どんなイバラがあるでしょうか。