新型コロナウイルスを信仰の観点から考える

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『神は、私たちが御怒りを受けるようにではなく、主イエス・キリストによる救いを得るように定めてくださったからです。主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目を覚ましていても眠っていても、主とともに生きるようになるためです。』(Iテサロニケ5章9〜10節)

連日、新型コロナウイルスのニュースばかりでいささか食傷気味、という方も多いでしょう。しかし、今回の災禍を「信仰」の観点からはどのように受け止めたら良いかということは、しっかりと考えておきたい事柄に思います。

ありがちなのは、今回に限らず大きな災厄が起こった時「これは神の天罰だ」と短絡的に断定してしまうやり方です。聖書を読むと、確かに人間の罪の後に災いが起こる場面が登場しますから、そう受け止めるのも一見すると無理もないかに思えます。

しかし、ここで考えなければならないことがあります。それは、創世記を読むと、人間が罪に陥った結果、世界全体が「のろい」を受けたことが記されている点です。この「のろい」とは呪術的、儀式的、魔術的な「呪い」ではなく、簡単に言えば「罪の影響を全体的に受けた結果、本来あるべき姿や機能、また他者との関係性を失ってしまった状態」を現しています。

このことから言えることは、人類の罪と災害とが「関係している」と言うことと、人間の罪が災害の「原因になった」と言うこととは完全に別である、ということです。このことは、いつも心に留めておくべきでしょう。正しい理解は前者の理解であって、後者ではないということです。

今回のコロナ渦で政府から緊急事態宣言が出され、私たちの生活は大きく制約されることになりました。ですが、アダムとエバ以来、世界は罪の「のろい」の影響下にあるのです。ですからある神学者の言葉を借りれば「人類は始まって以来、ずっと緊急事態の中にある」ということです。

しかし、そのような状況の中で、神様は冒頭の聖書のことばにあるように、ピンチの中にある私たちを「救おう」と、日夜奮闘しておられるのです。

イエス・キリストの十字架は主のその努力と愛の輝かしい現れです。

主なる神はコロナによって人類を罰そうとしているのではなく、「のろいを受けた地」に現れたこの病に苦しんでいる私たちを、その苦しみから救い出し、解放するためにイエス・キリストをお遣わし下さったのです。

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