『主は御霊(みたま)です。そして、主の御霊(みたま)がおられるところには自由があります。』(IIコリント3章17節)
子どもの頃からアウトドアキャンプが好きな私ですが、特に好きなのが「たき火」です。
たき火台の上に細い木をのせて火を付けます。徐々にくべる木を太くしつつ、木炭を足していきます。次第に赤熱した木炭が火力を増し加え、暖かさを作り出すと同時に幻想的な風景を作り出します。炎には心を落ち着かせる効果もあるそうで、何時間見ていても飽きません。
さて、一見するとただ火を付けるだけで簡単だと思われがちですが、実はたき火はとても奥深いものです。
たき火の成功に不可欠な要素は「空気の通り道を作ること」です。たとえば、新しい木をくべた時、私たちの常識からすると、燃えている炭に密着させた方が熱が伝わってすぐに火がつくように思えます。しかし実は上手くいきません。
そうではなく、炭と木の間に少しだけ距離を空けて空気が通るようにすると、赤々と燃え出すのです。木が燃えるには「空気」の通り道が、どうしても必要なのです。
このことは、私たちの「心」にもそのまま当てはまるように思います。
人間はただの機械ではなくて霊を持つ存在として造られました。ですから私たち信仰者は、霊的な交わりに渇望する性質を持っています。物質的にどれだけ豊かになったとしても、「霊」が満たされなければ虚しさを感じます。反対に、物質的なものに不足を覚えたとしても、霊が満たされているなら、その人は平安に生きることができます。
聖書はまた、神の霊である御霊(聖霊)を「息」にたとえています。神の霊との交わりは、人間の霊にとっては「呼吸」のようなものだ、ということです。ちょうどたき火の火が空気の通り道が無ければ弱っていってしまうように、人間の心にもこの「息」である聖霊が働いてくださらなければ、弱っていってしまうのです。しかし、もし心の中で聖霊が生き生きといのちの風を放って下さっているのなら、私たちの心の火は熱く燃えていくことができるのです。
今の世の中は、誰もが不安と恐れに囚われています。そういう困難な時だからこそ、神を信じる者の心に働いて下さる聖霊に心を委ねて、心の炎をあかあかと燃やされていきたいのです。
あなたの心は、息をすることができているでしょうか。
空気の通り道が、あるでしょうか。