マルコ
戸惑いながらの信仰
マルコの福音書からのメッセージ最終回。この箇所は「奇妙な終わり方」でも知られ、追加として短い末尾、長い末尾がありますが、あえてオリジナルの奇妙な終わり方に注目します。それまでの主役であった男性の弟子たちではなく、女性の弟子たちがこの段階で主役として登場することの意味は何か。また彼らの姿は何を教えているのか。聖書から説き明かしていきます。
神の子の死
聖書に記されているイエス・キリストの十字架の死の記録は、その悲惨さ以上に、不可解な謎に満ちています。それまで表舞台に出てこなかった人々が、主導的な役割を発揮しているのです。なぜでしょうか。また、それにはどんな意味があったのでしょうか。聖書から丁寧に解き明かしていきます。
十字架にかけられた王イエス
「真の王とは誰なのか」。新約聖書が私たちに伝えようとする中心的なテーマの一つが、この箇所に現れています。世の中の王たちは、人を支配し、自分を富ませることに集中しますが、イエス・キリストはそれとは全く反対の道を行かれます。そして十字架こそ、「イエスの王権」が最も逆説的な形で現れた場所でした。聖書から、「キリストの王権」の意外性を語っていきます。
身代わりの王イエス
イエス・キリストの十字架を想う「受難週」のメッセージ。早朝にローマ総督ピラトの前に引き出されたイエスの裁判のシーンを見ていきます。起こった事実のみを淡々と記していくマルコの筆からは浮かび上がるのは、バラバとイエスの「交換」の理不尽さです。しかし、実はそこにこそ、聖書が私たちに告げる「救い」の偉大さというメッセージが込められていました。王でありながら身代わりとなったキリストの姿を通して、人間を愛し、その救いのために奮闘する神の愛を説き明かしていきます。
そして彼は泣き崩れた
聖書の中で最も有名な裏切りである「ペテロの否認」の場面を見ていきます。闇に紛れ、イエスの様子を伺おうとしたペテロでしたが、逆に正体を見破られそうになり、命の危険を感じます。そのときに取った彼の行動は、同じ家の中で証言していたイエスの姿とは、余りにも対照的なものでした。私たちは彼の姿から何を学び、何を教訓とすることができるでしょうか。聖書から丁寧に解き明かしていきます。
神の御子の証言
ゲツセマネの園の祈りを終えたイエス・キリストを捕らえようと、ユダに先導された一行がやってきます。しかし弟子たちは蜘蛛の子を散らすようにして逃げ去ってしまいます。捕らえられたイエス・キリストは即決裁判で何を語り、何を語らなかったのか。またそれは私たちにとって、どんな意味を持っているのか。丁寧に解き明かしていきます。
霊は燃えていても
イエス・キリストの十字架の直前に行われた「ゲツセマネの祈り」。その場で、キリストが最も信頼していた弟子たちは、惨めな姿を晒してしまいます。そんな彼らにも、イエスは憐れみ深く接します。三位一体の神の愛の交わりから断絶させられるという究極の苦しみを通り抜けたキリストは、いよいよ捕縛されていきます。聖書はこの場面から何を私たちに伝えようとしているのでしょうか。丁寧に解き明かしていきます。
これはわたしのからだです
イエス・キリストの十字架を覚えつつ行われる「聖餐式(せいさんしき)」。キリスト教会で必ず行われるこの儀式の由来が記されているのが、今回の聖書箇所です。パンとぶどう酒という、当時の食卓ではありふれた二つの食材に、キリストは象徴的に自らの姿を重ね合わせます。キリストはそのとき、何を考え、何を伝えようとしていたのでしょうか。聖書から学んでいきます。
自分にできることを
十字架を目前にした食事の席で、イエス・キリストの頭に香油を注いだ女性がいました。弟子たちがその行為を無駄だと非難する中、イエスは全く異なる見方をされました。その背後には、「イエスを愛する」という、キリスト者として最も中心的なテーマへの問いかけがありました。時代を超えて語り継がれる彼女の行為から、私たちは何を学ぶことができるのでしょうか。聖書から解き明かしていきます。
目を覚ましていなさい
イエス・キリストの再臨について詳しく解説された場面。歴史上、さまざまな極端な解釈や過激な主張がこの箇所を引き合いに語られてきました。そのような論に振り回されず、イエス・キリストの意図を正しく理解するために、何が大切なことなのでしょうか。年の瀬の礼拝に、クリスチャンとしての「ゴール」である再臨の記事を学んで行きたいと思います。
主の御名を終わりまで
アドベント第1週のメッセージ。キリストの到来から現在に至るまでの期間を、キリストは「産みの苦しみ」と表現します。そして、信仰故に経験する困難についても率直に、弟子たちに語ります。それは私たちを怯ませるためではなく、備えさせるためでした。救いの恵みだけでなく、信仰の厳しさも隠すところなく語るキリストのメッセージから、私たちは何を知るべきなのでしょうか。聖書から説き明かします。
時を見逃さずに
真のささげもの
最小単位と言われる銅貨を、神殿の献金箱に投げ込んだ貧しいやもめの女性を、イエス・キリストは「他の誰よりも多くを投げ入れました」と評されました。どのような点で、彼女はそう言われるべき人だったのでしょうか。またそれは、現代に生きる私たちに何を語っているでしょうか。当時、宗教者として人々の尊敬を集めていた律法学者たちの「内実」と比較しながら、ご一緒に教えられて行きたいと思います。
最もたいせつな命令
「あらゆる教えの中で最も重要なものは何か」。律法学者の質問は、率直で素直なものでした。イエス・キリストもまた、彼に簡潔明瞭にお答えになります。その中心は「愛」でした。神を愛し、人を愛するという教えこそ聖書の中心であると語られたイエス・キリスト。その背後にはどんな意図があったのでしょうか。またそれは、現代に生きる私たちに何を教えているのでしょうか。聖書の言葉に密着しながら、説き明かしていきます。
生きている者の神
「死後の生」は果たしてあるのか、それとも無いのか—。一見すると意外にも思える議論の口火を切ったのは、イスラエルにおいて「エリート」と目されるサドカイ人たちでした。自分では聖書の真理を引き出したと考えていた彼らでしたが、実は、もっとも基本的な事柄を見落としていました。それを指摘したイエス・キリストのことばからは、現代に生きる私たちへの大切な教訓がありました。「死んだ後、人はどうなるのか」。誰もが気になるこの疑問について、聖書から迫っていきたいと思います。
神のものは神に
「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に」。クリスチャンでない方にもある程度は知られているこのイエス・キリストのことばは、一体何を意味しているのでしょうか。そして、この世界と、神について、どんなことを教えてくれているのでしょうか。実は、このことばには、信仰者にとって一番大切なものは何であるのかを示す、とても大切な教えがありました。聖書から、ご一緒にその教えを学んで行きたいと思います。
要石、それは捨てられた石
私たちの生きる世界で何かと問題にされるのが「権威」や「権限」。イエス・キリストに対して、ユダヤ人指導者達が挑戦したのも、この問題でした。当時のイスラエル社会で最高の権威を誇っていた彼らは、思いがけないことばをイエスからかけられることになります。その背後にあるキリストの思い、そしてキリストがこのあと歩む道とは、どのようなものだったのでしょうか。聖書から丁寧に説き明かしていきます。
祈りの力
「いちじくの木」と「神殿」。一見すると何の関係もないように見える二つのものが、点と点がつながるようにしてつながっていくのが今回の聖書箇所です。キリストは、イスラエル人の誇りでありアイデンティティであった神殿が、イエス・キリストへの信仰にとって代わることを、いちじくの木を通して示していきます。そして、信仰者に与えられた祈りがどのように偉大なものであるかを語るのです。聖書のメッセージに耳を澄ましていきたいと思います。
信仰による救いとは
イエス・キリストの十字架への道が具体化するマルコ11章。その直前に記されているのが、今回の箇所に登場する盲人バルティマイの姿です。苦難に満ち、人から無視され、願いを聞いてもらえないことに「慣れて」いた彼でしたが、目の前に現れたイエスを見たとき、癒やしを求めて叫び声を上げます。人々から叱られても、決してその声をやめることがなかったバルティマイ。彼は何を想い、イエスをどのように見つめていたのか。彼のあり方から「イエス・キリストの弟子」として生きるとはどんなことなのかを見つめて行きます。