出エジプト記

主の栄光が満ちて

出エジプト記の最終回のメッセージ。全ての準備が整った幕屋を、ついに建てあげる時が来ます。神から示された手順に民が忠実に従ったとき、そこに現れたのは神の栄光の光でした。時代を超えて、出エジプト記が放つメッセージはどのようなものなのか。説き明かしていきます。

命じられた通りに

ついに完成する幕屋の全ての備品でしたが、作業に当たったイスラエルの民にはある顕著な特徴がありました。それは現代に生きるクリスチャンにとっての「教会」のあり方にも通じる、大切な原則を語っていました。聖書のことばに分け入りながら、学んで行きます。

主への献げ物

イスラエルの最初の礼拝場所である「幕屋」の製作が進む場面です。今回は「庭」とその中にあるものについて、現代に生きる私たちにとってどのような意味があるのかにフォーカスしながら学びます。そうすると、庭の幕をくぐってから幕屋に至るまでの道が、実はクリスチャンとして救いを頂き、神に近づいていく道とそのまま対応していることに気づきます。幕屋が象徴する神の救いのご計画とは、どのようなものなのでしょうか。聖書から丁寧に解き明かしていきます。

混ぜ物を無しに

幕屋の外側の製作を完了したイスラエルの民は、中に収める器具の製作に取りかかります。その一つひとつは、それぞれ現代に生きるキリスト者が、心のうちに与えられるものを象徴的に指し示すものでした。数千年の時代を経ても古びない聖書のことば。聖書から丁寧に解き明かしていきます。

主に心動かされて

エジプトを脱出したイスラエルの民の生活の中心である「礼拝」。神はその礼拝の場所である幕屋の造営を民に指示し、彼らは仕事に取りかかります。その姿には活気があり、一人ひとりが意欲的でした。その秘訣はどこにあったのでしょうか。また、現代に生きる私たちは、彼らの姿から何を学ぶことができるでしょうか。聖書から説き明かしていきます。

主に献げるとは

金の子牛を造って拝むという、信じがたい罪を犯したイスラエルの民に、神は礼拝の場所である幕屋を造るようモーセを通して命じます。それは、再び民をご自分の民として受け入れ、そのただ中に住むという神のあわれみの現れでした。民はその招きを喜びを持って受け取り、積極的に応答していきます。その姿は、現代に生きる信仰者にとっても「献げる」ということのあるべき姿を示すものでした。「献金」に対する世間的な風当たりが強まる昨今に、献げ物とはどうあるべきなのか。聖書から紐解いていきます。

今ここで、契約を結ぼう

契約の片方の当事者が、一方的に契約を破棄した場合、その契約はどのようにして再生しうるか—。大半の人は「そのような方法は無い」と考えます。ところが、神はそうはお考えになりませんでした。モーセも同じでした。契約を再び再生し、しかも同じ過ちを犯さないためには何が必要か。そのことを、神はモーセを通して教えます。人を再び「契約の民」へと再生しようとする神の情熱と熱心にフォーカスしつつ、聖書から丁寧に解き明かします。

信仰による大胆さ

「神の前にとんでもない失敗を犯してしまった友や仲間を前に、どのように振る舞うべきか—」。モーセが直面したのはそのような問いでした。保身に走ったり、自分のことを優先することもできたはずのモーセは、そのような道を歩まず、むしろ神の前に大胆にとりなしをします。その姿は、やがて来る「真の取りなし手」であるイエス・キリストを予感させるものでした。聖書から丁寧に解き明かしていきます。

神の人のとりなし

自分たちを救い出された神を、金の子牛に置き換え、その前で踊り不品行に陥ってしまったイスラエルの民のために行ったモーセの嘆願は受け入れられましたが、それで問題が解決した訳ではありませんでした。民は自らの罪に向き合う必要があったのです。それは痛みを伴う経験となりましたが、モーセは自分自身をなげうつ覚悟でそれに臨みます。同胞を思うモーセの愛。そして、そのような中にあっても民を見捨てない神の愛にフォーカスしつつ、説き明かしていきます。

捨て身の嘆願

「神を礼拝するとはどういうことか」。エジプトで400年もの間、異教の習慣に染まっていたイスラエルの民は、このことを全く理解していませんでした。そのため、シナイ山で神はモーセに礼拝とは何かを教えます。一方、麓で待機していた民は、待つことができず、偶像を造って「自己流の礼拝」を始めようとします。事情を知らされたモーセは、神の前である意外な行動に出ます。結果的に、それがイスラエルを救うことになったのでした。モーセを招く神のあわれみと同時に、神を礼拝するということの厳粛さを、説き明かしていきます。

神の備え

出エジプト記の「幕屋についての指示」の最後のセクションです。実際に作業を行う人として召されたベツァルエルの人生に起こった「変化」にフォーカスをあて、「仕事」について考えていきます。自己責任の文化があちこちで語られる現代社会において、「神が備えて下さる」ことに期待する信仰者の歩み、そしてその中における「安息」の意義とは何でしょうか。聖書から丁寧に解き明かしていきます。

『聖』の意味とは

「聖書」と言うことからも分かるように、キリスト教では「聖」ということばを大切にします。でも、私たちにとって「聖」とは一体どんな意味があるのでしょうか。出エジプト記の記述から、そのヒントを得ることができます。「聖」が誤解されている現代にあって、信仰者はどのようにそれを理解し、受け止めていけば良いのでしょうか。聖書から丁寧に解き明かしていきます。

祭司の任職

現代人の生活では余りなじみのない「祭司」。しかし、イスラエルの歴史においては非常に重要な意味を持つ存在でした。単に祭儀を行うこと以上に、「神と人との間を取り持つ通訳」としての役割こそ、祭司の本質でした。そしてそれは、後にイエス・キリストにおいて完全に成就することになります。その重要な「祭司」の任命はどのようにして行われたのでしょうか。またそれは何を意味するのでしょうか。聖書のことばから丁寧に解き明かしていきます。

祭司であるということ

聖書全体をつらぬく重要な存在である「祭司。その装束についての細かな規定が語られます。一見すると、それらの装飾に何の意味があるのかと感じてしまいますが、実は深い意味がありました。後の時代にやってくるイエス・キリストを指し示す祭司の装束の意味とは—。聖書から丁寧に解き明かしていきます。

ともしびを絶やさずに

幕屋(礼拝をするテント)の作り方について、神からイスラエルの民への指示が続きますが、今回は「祭壇」と「庭」がテーマになります。なぜ庭が囲われたのか。なぜ祭壇が置かれたのか。いずれも、神と人との関係においてとても大切な原則を教えるための、「目に見える教材」として機能していました。3000年以上の時を経ても色あせない聖書が語る「礼拝」についてのメッセージは何か。聖書から説き明かしていきます。

仕切りの垂れ幕

エジプトを脱出した民に無いもの、それは「礼拝の場所」でした。神様は「神の家」としての幕屋を作るようモーセに指示します。細かな寸法が並びますが、実際にイメージを描くと、そこにはある大切な原則が浮かび上がってきます。3000年以上の時を経ても色あせることのないその原則とは一体どんなものだったのでしょうか。聖書から説き明かしていきます。

弱さの中に生きる恵み

今週は講壇交換で、石巻福音自由教会の高橋勝義牧師によるメッセージです。預言者モーセを神が召す場面から、弱さを用いて下さる神の恵みの豊かさを語っていきます。

主の招きに勇気づけられて

「神の前に出る」。礼拝の本質ともいえるこの行為は、分かっているようで分からない、という方が多いのではないでしょうか。かくいうイスラエルの民も同じでした。そんな彼らに、神様は「礼拝とは何か」を具体的に教えていかれます。その教えの中心は、現代に生きる私たちにとっても変わることの無い、大切な原則でした。聖書から「礼拝とは何か」を見ていきます。

祝福の条件

エジプトの奴隷状態から解放され、カナンの地に向かうイスラエルの民。しばしば「旅」に例えられる彼らの歩みは、実はクリスチャンの信仰生活の「旅」にそのまま重なるものと言えます。したがって、神が出エジプト記でイスラエルに与えた戒めも、現代に生きるクリスチャンの生活に当てはめて考えることができます。一見すると理解が難しく思える箇所こそ、実は深い意味があったのです。聖書から丁寧に解き明かしていきます。

キリスト者の公正とは

「公正であること」。キリスト者であれば「当たり前」と思っているこのことも、実際の自分の生活を振り返ると、公正とはほど遠い歩みをしていることがあります。聖書はそのような表面的な意味での公正ではなく、本質的な意味での「真実さ」を説いています。そしてそれは、イエス・キリストの内に、まさに見られたものでした。クリスチャンが公正であるとはどういうことなのか。聖書から丁寧に解き明かしていきます。
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