ヤコブ

力ある祈り

信仰者として、霊とからだとが一致して神へと向かう。ヤコブが自らの手紙を通して語ろうとしてきた事柄が集大成を迎えるのが今回の箇所で、もう一度、「祈り」にフォーカスがあてられます。力ある祈りとはどんな祈りなのか。私たちが孤独の中にではなく、共同体の中に生かされていることの意味は何か。聖書から丁寧に説き明かしていきます。

慈愛とあわれみの神に

「金持ちたちよ」で始まる今回の箇所。多くの人が「自分には関係がない」と思いがちですが、実はそう簡単な話ではなく、その背後には「何に信頼を置いて生きていくか」という大切なテーマに対する、ヤコブの深い問いかけがありました。その時に鍵となるのは「終わりを意識する」ということでした。「終わり」で信仰者を待ち構える神のあわれみに目を向けつつ、聖書から説き明かしていきます。

なすべき良いことを

キリスト者の目に見える生き方の大切さを切々と説くヤコブの言葉は、しばしば信仰者の「ことば」に注目をあてます。それはどうしてなのでしょうか。その背後には「人間とは何か」「神の前での人間とは何であるのか」についての、深い洞察がありました。単に表面的な言葉遣いのあり方にとどまらない、ヤコブの訴えは、私たちに何を伝えようとしているのでしょうか。聖書から説き明かしていきます。

世からの自由

「争いの原因は何ですか」。ヤコブはこのような問いを私たちに投げかけることから、今回の箇所を語りはじめます。それは、全ての人の内にある罪の性質に気づかせ、そこからの解放の必要性を説くためでした。そして、その解放に必要なものとは何かも、併せて語っています。私たちがこの世の力から自由にされて、神の力によって生きるために必要なのはどのようなことなのか。聖書から説き明かしていきます。

上からの知恵によって生きる

「知恵深さ」と聞くと、「頭の良さ」とは違ったイメージを抱く人が多いことでしょう。では、聖書が教えている「知恵」とは、どんなものなのでしょうか。ヤコブは知恵には二種類があると言います。「上からの知恵」こそ、私達が真に求めるべきものだと説くのです。聖書から「知恵」について、ご一緒に考えていきたいと思います。

あなたの言葉が示すもの

信仰者にとって「言葉」とはどのようなものであるべきか。ともすると軽視されがちなこの課題について、ヤコブは正面から切り込んでいきます。それは「ことば」で世界を創造され、「神のことば」として受肉したイエス・キリストを信じる者として、避けることのできないことでした。私たちが放つ「言葉」のあるべき姿は何か。聖書から説き明かしていきます。

信仰と行いの関係とは

クリスチャンにとって本当に大切なのは「信仰」なのか、それとも「行い」なのか。永遠のテーマにも思えるこの難題に、ヤコブは正面から取り組みます。それは、しばしば両極端のどちらかに傾きがちな私たちの考えを正し、あるべき道へと導くものでした。ヤコブの手紙の「中心」とも言える箇所から学んで行きます。

愛の律法によって

人の見た目によって露骨に対応を変える。現代の一般社会でも余り見られない対応が、古代の教会に存在していました。その原因はどこにあるのか。キリスト者の交わりはどうしたら真実なものになりうるのか。ヤコブは私たちの内側にある問題に少しずつ迫り、最終的には「キリストのあわれみ」に立ち返るよう勧めます。

自由をみつめて

「神のことば」である聖書を信じるクリスチャンですが、「自分自身の言葉」はおろそかになりがち。ヤコブはそんな私たちに、語る言葉と、その土台にある心のあるべき姿を語ります。彼の念頭にあるのは、イエス・キリストの姿でした。「言葉と信仰」の問題を分かりやすく聖書からお話しします。

真理のことばを

ヤコブの手紙の第2回。今回は「試練と誘惑」がテーマです。信仰を持って歩む中でも、試練や困難がやってきます。そんなとき、私たちは「これは試練なのか、それとも(悪魔の)誘惑なのか」と悩むことがあるかも知れません。このようなときにはどう考えれば良いのでしょうか。また対処するにはどうしたらよいのでしょうか。ヤコブが語る原則から教えられていきたいと思います。

成熟を目指して

「行い」を強調する書物と考えられているヤコブの手紙。「信仰義認」の教理を強調するパウロ書簡との整合性をめぐってしばしば議論になりますが、実は両者は「見ている段階」が違うだけで、とても大切な真理を語っているのでした。初回となる今回から「ヤコブ節」全開となります。しばしば誤解されてきたこの手紙。聖書から、その語るメッセージの深みに迫ります。
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