聖書とはどんな書物なのですか?

聖書は、現在販売されているものは、一冊の「本」として装丁されていますが、もともとは様々な書物の集合体です。具体的には、66巻の書物からなっています。この66巻はそれぞれ、前半の39巻を「旧約聖書」と呼び、後半の27巻を「新約聖書」と呼びます。

旧約聖書は、元々はユダヤ教の聖典として、紀元前15世紀から紀元前5世紀頃までの間に、数多くの著者によって書かれ、まとめられて成立したものですが、ユダヤ教の土台の上に生まれたキリスト教も旧約聖書を聖典として扱い、大切にしています。

一方の新約聖書は、キリスト教だけが聖典としていて、紀元50年代〜90年代にかけて、やはり複数の著者によって記されたことが確実になっています。

では、聖書は何を語っているのでしょうか。しばしば聖書は「道徳の教科書」として受け止められることが多いように思います。もちろんそれも間違いではありませんが、聖書は決して、倫理的な事柄だけを語る書物ではない、ということはぜひ心に留めて頂きたいと思います。

むしろ聖書がその全体として語っていることは、端的に言うならば「人はどこから来て、どのように歩み、そしてどこへ行くのか」という問題に明瞭な答えを与えること、だと言えるでしょう。つまり、私たち人間の人生においてもっとも根本的な問い、存在の根本に関わる、「始めと終わり」の問題に答えること。それが、聖書が初めから終わりまで一貫して扱おうとしていることだと言えるのです。

実際、聖書の冒頭には、天地創造のストーリーが記されていますし、聖書の最後には、新しくされた天と新しくされた地の姿が印象的に描かれて終わっています。明らかに聖書は「初めから終わりに至るまで」、その全体像を語ろうとしているのです。

では、聖書はどのようにしてそれを行っているのでしょうか。堅苦しい論文や、法律の条文のような箇条書きで、でしょうか。もちろんそういう箇所も無い訳ではありませんが、大部分はそうではありません。先ほど「ストーリー」と書きましたが、聖書はまさに「物語を語る」ことで、それを行っているのです。

誰の物語でしょうか。それは「イスラエル民族」です。イスラエルの紆余曲折、波瀾万丈の歩みを通して、人間の生老病死、また罪からくる悲しみと痛み、また嘆き、そして回復の希望を語ろうとしているのです。ですから、聖書はしばしば「イスラエルの国史」と受けとられていますが、決してそれだけではないのです。聖書に書かれていることは、イスラエル人だけに当てはまることではなく、「人類の普遍的な体験」なのです。

実際、皆さんがもし聖書を手にとって読んで行かれるならば、不思議な感覚を持たれる時があるでしょう。「ああ、これは私とおんなじだ」という体験です。そうです。聖書に書かれている内容は、まさに「私たちのライフストーリー」でもある、ということなのです。私たちは聖書を読んでいくとき、イスラエルの姿の中に、自分自身の姿を見ることができるのです。これが、聖書が時代や民族や言語を超えてこれほどまでに世界中で読まれている理由だといえるでしょう。

もし一国に都合の良いことだけを書いている「歴史書」ならば、その国の人は喜んで読んでも、他の国の人は苦々しく感じ、破り捨てるでしょう。ところが、聖書はそのようなことはありません。聖書は、イスラエルの物語として描かれていながらもイスラエルの枠を超え、人類の「弱さ」の歴史でもあり、また、イスラエル民族のような弱い者たち(すなわち私たち)をも顧みて、希望の約束をもって励まし、そして実際にいのちまで投げ出すほどの愛をもって導いてくださる、「神の物語」でもあるのです。