新しいいのちを待ち望む

 

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『見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。だから、わたしの創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。』(イザヤ65章17〜18節)

 さわやかな風を感じる5月のある日、家族でコテージに宿泊する機会がありました。海のそばにある、とてもすてきなコテージです。自然を満喫していざ帰るとき、こんなことがありました。そこは普段は無人なので、次の人のために綺麗に掃除をするよう指示を受けていました。

 どんな人が泊まるかと想像しながら心を込めて掃除しました。綺麗になった部屋を見ながら満足感を覚えました。そこでふと思ったのです。「私の人生にもこのような『次なる人』を意識する時がいずれは来るのだ。では私は、普段からその時のことを思って心を整えて生きているだろうか?」と。

 キリスト教の顕著な特徴の一つに「来世を待ち望む信仰」があります。これは、今私たちたちが生きている世界である「現世」が疎ましいとか、嫌になったという思いからではなく、「今の世を精一杯生きつつも、その足りなさをも同時に受け止め、その上でその足りなさの全てが『新しくされる』ことを待ち望む前向きな信仰」と言えます。

 私たちは人生を生きていく中で、様々な「足りなさ」を経験します。「老い」はその最大のものです。以前は簡単にできたことが、今はもうできない。それはとても寂しい経験であり、心痛む時です。またあの日に戻りたい、と懐かしむ思いをもって、私たちは昔を振り返るのです。

 聖書が教える来世とは、そのような、「古き良き日々を取り戻す」ということとは違います。かといって、現在の世がそのまま継続するわけでもありません。あるいは反対に、一切合切がリセットされるのでもないのです。今の世とある種の連続性を持った上での「新しさ」です。ですから「更新」とか、「再生」と称するのが最も妥当だろうと思います。キリストを信じるなら、私たちの行く手には、死をも乗り越える「新しいいのち」が待っているのです。

 クリスチャンとは、冒頭の聖書のことばに鮮やかに描かれているように、この新しくされる日を待ち望み、大いなる希望を抱いて日々この世を歩む旅人たち、と言えるでしょう。

 あなたも、この幸いな人生に一歩踏み出してみてはいかがでしょうか。